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TOP > INTERVIEW:瀬々敬久インタビュー
INTERVIEW01

ピンク四天王として名を馳せ、今ではバリバリメジャー大作からインディペンデント映画までで手腕を振るう、瀬々敬久監督。日本映画のど真ん中で活躍する彼が、今度はドキュメンタリー映画、しかも3部作の超大作を発表した。カメラで追い続けたのは、日本のミュージック・シーンを語る上で欠かせない伝説のバンド、“頭脳警察”。その3年にもわたった記録の旅を本人が振り返る。

取材・文/水上賢治

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なぜ“頭脳警察”だったのか?

まず、瀬々監督と頭脳警察との出会いを教えてください。

01瀬々:名前はその前から知っていたんですけど、1番興味を持ったのは1986年のこと。この年に僕は大学を卒業して上京しているんですよ。なぜ上京したかというと『追悼のざわめき』の助監督をやった人物が自主制作時代の仲間で。その彼から"自分たちの映画を作ろう"的な誘いがあり、"よっしゃあ"みたいな感じで行ったんです。ところが行ってみると彼はすでに映画界から足を洗っていて(笑)。それで僕は彼のところに居候して、まだ滝田洋二郎監督らがピンク映画を作っていた獅子プロダクションで助監督をはじめるんですが。その時期、彼から"これいいぞ"と渡されたのが、PANTAさんがその年の5月に発表したコンセプトアルバム『R・E・D(闇からのプロパガンダ)』。先の見えない状況で悶々とした日々を過ごしていた僕の心に、このアルバムの曲はどれも響いてきたんですね。そこからさかのぼって頭脳警察を聴くようになって。助監督時代、頭脳警察のナンバーが、僕の中にたまった鬱憤や不満を晴らしてくれた(笑)。それと同時に、社会的なことから目をそらさない常に視野に入っている日本で唯一のバンドとの認識も持ちました。ディスコグラフィーを見るとわかるんですけど、のちの社会を予見しているようなアルバムや曲をその都度創作されているんですよね。そんなこんなでいつの間にか、僕の傍らには頭脳警察がいたんです。そして、ちゃっかり1989年に僕が監督したピンク映画『課外授業 暴行』では、『R・E・D』の中に収録されている楽曲「バニシング・ロード」を使っています。

いわば大ファンだったわけですけど、今回の話はどういった経緯でスタートしたのでしょう?

瀬々:1990年の半ばぐらいだったと思うんですけど、PANTAさんのファンクラブの会報誌に、僕は評論家で脚本家の切通理作さん、作家の奈良裕明さんとの座談会の記事で登場しているんですね。この編集をしていたのが、今回の企画立案者である須田(諭一)さんで。その彼からたぶん10数年ぶりだったと思うんですけど、突然電話がかかってきて。この話を持ち出された。でも、そのときはお金の算段もついてないし、PANTAさんが活動を開始するかも未確定。だからもう少し様子を見ましょうとなったんです。それから、1年ぐらい経ってまた須田さんから電話がきた。須田さんいわく「PANTAさんがいよいよ動きだします。僕の勘としては再結成があるはず」と言われまして。じゃあ、制作費もなにもないですけど、まず動こうとなって2006年6月ぐらいから撮影に入りました。

それって見切り発車に近いですよね? 予算とかの算段ついてないわけですから

瀬々:そうですね(笑)。でも、運良くプロデューサーが早くに見つかったんですね。でも、途中でもろもろあって、その方が降りてしまった。次のプロデューサーが見つかるまでは、須田さんと僕がお金を出し合って進めていったりもして。

それは完全に自主映画じゃないですか(笑)

瀬々:そうなんですよ。お金がないから、移動もほぼ電車。地方の撮影の場合は、深夜バスで行って深夜バスで帰ってくる(笑)。ギャラは払えないんで、スタッフには"その土地で酒飲ませて誤魔化して帰らせる"みたいな感じで、ほとんど学生映画ののりですよ。いい年したおっさんたちばかりなのに(笑)。ただ、結果から言うと、だからこそこんな大胆な作品になったんですね。普通の製作だったらビジネスの論理が入ってきますから、3年も追い続けていたら"ええ加減にせえ"と、良識のあるプロデューサーは突っ込んでくるわけです。しかも3部作なんていったら、まず許されない(笑)。どこかで答えを出さないといけないわけですけど、今回は終わりがいつ見えるかわからない状況で、よくも悪くもそれが許された。スタッフは大変だったと思うんですけど、この作品としてはこの綱渡り的な製作スタイルがうまい方向に作用してくれたんじゃないですかね。そう思うことにしています(笑)。


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映画監督・瀬々敬久とドキュメンタリーの関係

ちょっと作品の内容自体とは離れるのですが、瀬々監督はドキュメンタリーをこれまでに手がけられたことがあるのでしょうか? あまりそういう印象がないんですけど。

瀬々:実はTVドキュメンタリーをけっこうやっているんですよ。『NON−FIX』とか『情熱大陸』とか。

そうなんですか、知りませんでした。

瀬々:ええ。きっかけは『NON−FIX』。実は同番組でピンク四天王を追った回があり、僕はそのときに取材されたんですね。だから、ドキュメンタリーの被写体も経験しています(笑)。その後に、同番組のプロデューサーさんから"ドキュメンタリー番組を作ってみないか?"とお誘いを受けて。それで『NON−FIX』で廃墟にまつわるドキュメントを撮りました。

では、ドキュメンタリーを撮ることに戸惑いみたいなことはなかった。

瀬々:そうですね。ただ、以前はドキュメンタリーには手を出さないでおこうと思っていました。

それはなぜですか?

02瀬々:学生の時に、僕は小川紳介監督とか、土本典昭監督とかの作品を見たんですけど、みなさん性根が座っているというか、ほとんど自分の全人生を賭けている。自分の日常までもその対象となる人々の暮らす土地に置いて、そこでようやくカメラを回している。実は1度、小川監督の現場に手伝いにいったことがあるんですよ。『1000年刻みの日時計 牧野村物語』というドキュメンタリーパートとドラマパートのある作品で。その時の助監督の方と知り合いでドラマパートの応援を頼まれたんです。のちにドキュメンタリー界を代表する監督となる佐藤真さんとかと1週間ぐらい手伝いました。そのとき、小川さんのドキュメンタリーの現場を目の当たりにしたんですけど、もう壮絶すぎて(笑)。"この世界に入ったら、自分の人生が無くなるぞ"と思ったんで、絶対に手を出してはならないと心に決めていたんです。ただ、時代が進むにつれて、ビデオカメラがコンパクトなサイズになり、ひとりで持ち運べるようになった。それとともにカメラが身近などこにでもあるものになり、ドキュメンタリーの質もちょっと変わった気がするんですね。こうなったとき、僕の中でドキュメンタリーが学生時代に回していた8ミリのような感覚で捉えられて、これならばかつての正攻法の作り方とは違うけれども、別の方法で被写体ときちんと向き合えると思ったんです。

いまの話に通ずるのですが、今回の『ドキュメンタリー 頭脳警察』は、撮影者と被写体が結んだ関係性がちゃんと存在する。それゆえにいま、ここ数年ブームになっているいわゆる音楽ドキュメンタリーとはちょっと趣きが違うと思います。

02瀬々:そうですね。いまの通常の音楽ドキュメンタリーと呼ばれる作品は、そのアーティストのライブがメインとしてあって、いい悪いは別として、最初からパッケージ目的が要素として入ってしまっていると思う。だから、ライブ映像なんて撮り逃しがないようにカメラを20台以上セッティングして、あらゆる角度から撮りまくる。ただ、それはどこかシステマティックな撮影で、自分の持ち場に徹してある意味で制約された映像になってしまうところがあると思うんですね。僕らもライブのとき、それをやりたい気持ちはありましたけど、なにせマネーがないもので(笑)。第1部の風林会館のライブでも頑張って5台。ライブ・ドキュメントのことをよく知るライターさんに"(通常の音楽ドキュメンタリーが)大型爆撃機で挑んでいるとしたら、こちらは竹槍ですよ"と言われました(笑)。ただ、その分、カメラマンの気合が入っているというか気持ちが映像に入っている。撮影者と被写体が個人的な関係を結び、それが映像に出てしまっているんですよ。だからライブなんか、あるカメラマンはPANTAさんのパフォーマンスに見入って知らず知らずにじりよっている。あるカメラマンは、ひたすらPANTAさんのアップを撮り続けている。そのときの撮影者が"ここはこのアングルから撮りたい"と思ったショットなんですね。それがこの映画のいい味になっていると僕は思っています。

カメラ5台で竹槍といわれましたけど、ライブ映像はそんなことは微塵も感じさせないほど、すばらしい出来だと思います。特に3部のラストを飾る京都大学西部講堂でのライブはすごい迫力に圧倒されました。

瀬々:.あのライブは、もちろんカメラマンも頑張ってくれましたけど、頭脳警察のパフォーマンスがちょっと圧巻でしたね。この日は「FLOWER TRAVELLIN' BAND」と実は対バンだったんですよ。なんでも頭脳警察は対バンのとき、昔から異様に燃えるらしいんですね。その気合がダイレクトに出ていると思います。

3年に渡って最終的に追い続けたわけですが、作品にするにはどこかで区切りをつけないといけない。最初のお話したときに、"終わりがいつ見えるかもわからない"との発言がありましたが、どこでその踏ん切りはついたのでしょう?

瀬々:第3部のラストとなる西部講堂でのライブ。この講堂はロック黎明期を語る上で欠かせない、ひとつの聖地ですし、大屋根に描かれている三ツ星は全共闘時代のひとつの象徴でもある。ここで頭脳警察が再結成ライブをやるのは意義深いし、PANTAさんと元日本赤軍の重信房子さんは今も交流が続いているわけで、その意味でも何か運命めいたライブのように思える。このとき、直感的にすごいライブになる気がして、"ここが終着点かもしれない"と思ったんですね。それまでは本当に終わりが見えなかった。実を明かすと、この映画にはある意味、欠点があるんです。頭脳警察が再結成をして1発目のライブが日比谷野外音楽堂のコンサート・イベントで行われているんですけど、それが撮れていない。実は、撮る予定だったんですけど、諸事情でコンサートの主催者サイドから許可が下りなかった。そのときは、"これ、いつまで続くんだろう"といった具合で。ほんとうに西部講堂がなかったら、今も追い続けていたかもしれない(笑)。

ある意味、いまの時代にとって掟破りの(笑)、3部作という構想はどの時点で浮かんできたのですか?

zeze瀬々:2006年の11月にPANTAさんのお母様が亡くなられて、それを撮らせていただいたんですけど、そこからなんとなく1本で表現できるような内容じゃないと感じ始めたんですね。頭脳警察を語る上で、歴史や政治といったことは欠かせない。そこから日本の社会が見えてくる。バンド自体の軌跡は日本のロックシーンをたどる旅でもありますから、ほんとうにそれを全部伝えようと思ったら、1本なんかじゃとてもとても。さらに僕はバディ・ムービーっぽい作品にしたくて。PANTAさんとTOSHIさんの悪ガキ友情物語みたいな(笑)。それぐらい二人の関係性が魅力的で面白かったので。

監督のいま語られた通りで、頭脳警察を主軸にして日本の社会の変容や音楽シーンの軌跡など、ほんとうに様々なことが見えてくる。でも、最終的にはPANTAさんとTOSHIさんの人間性に集約された作品なのかなと感じました。

瀬々:そうなんですね。僕も最初は先ほど言ったように、ものすごく壮大な内容を当初は考えていたわけです。でも、最終的にはすごくみなさんの日常の傍らにあるように感じられる作品に収まったんですね。これはPANTAさんとTOSHIさんの人柄だと思います。来るもの拒まずで、生きとし生けるものすべてを受け入れてしまうTOSHIさんの人間の器のでかさ。重信さんのことを自分のこととして考えて向き合うPANTAさんの優しさ。そういう2人の人間性が垣間見える瞬間が、この映画の主軸になっていると思います。いま振り返ると、僕もこの二人の人間性に見せられていたからこそ、3年もずっと追い続けていた気がしますね。

お二人はもちろん作品をご覧になってますよね。

瀬々監督 Recommend

■好きな映画
『股旅』
『青春の殺人者』
『まぼろしの市街戦』

■好きな監督
成瀬巳喜男
川島雄三
M・ナイト・シャマラン

■好きな俳優
ショーン・ペン
レオナルド・ディカプリオ
フォレスト・ウィティカー

■好きな女優
ゴールディ・ホーン
レネー・ゼルウィガー
マギー・チャン
瀬々:ええ。おおよそ完成したところで3部作を一挙に見ていただきました。このときはドキドキしましたねぇ。ダメだしされることは覚悟していました。というのも、アーティストの方ってすべてを自分が背負っていると思うんですね。役者はダメな演技しても、監督のせいとかにできると思うんですけど(笑)、アーティストはそうはいかない。自分で行った行為は自分で責任をとらないといけない。だから、アーティストとしての意見としてカットを要求するところもあると思っていたんです。でも、お二人ともにすべてよしとしてくれて。あとできくとPANTAさんはカットしてほしいところは山ほどあったみたいなんですけど、僕らスタッフの試みを尊重してくれて、"これはOK"としてくれた。ほんとうにすばらしい人たちです。

 
スペーサー   Profile: 瀬々敬久(ぜぜ・たかひさ)
スペーサー
1960年大分県出身。
京都大学文学部哲学科卒業。大学在学中から自主映画を製作し、ピンク映画の助監督を経て89年に『課外授業 暴行』で監督デビュー。以後、ピンク四天王の一人として活躍し、海外でも支持を得る。97年、『KOKKURI こっくりさん』『黒い下着の女 雷魚』で一般映画に進出した。主な作品に00年『HYSTERIC』、03年『MOON CHILD』、08年『感染列島』などがある。

「ドキュメンタリー頭脳警察」公式サイト
http://www.brain-police-movie.com
   

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