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榎本憲男インタビュー

プロデューサー、脚本家、劇場支配人、映画学校の講師と多方面でキャリアを積み、50代にして『見えないほどの遠くの空を』で遅咲き監督デビューした榎本憲男監督。Twittter では映画制作や脚本の講座を不定期に行い、人気を呼んでいる。自主映画とは?製作委員会とは?撮影方法は?また俳優の演出方法は?多彩な経歴から培われた鋭い視点で語ってもらった。

取材・文/植山英美

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製作委員会方式と自主映画、それぞれのリスク回避方法

――あえて自身の作品を“自主映画”と呼んでいます。

 
『見えないほどの遠くの空を』
(C)2010「見えないほどの遠くの空を」製作委員会
榎本:自主映画の定義として、プロジェクトが監督主導であるかという点がまず大きい。今の大手の映画の企画はプロデュサー主導でさえない、製作委員会主導になっているんですね。誰が主導権を握っているのもわからない。「うちは20%出しているので、うちの立場で20%分の主張をしますよ」という具合に、5社から場合によっては10何社の著作権者がいて、最大公約数的なマーケット戦略で作られています。監督の主導権は後退し、広告代理店的なパッケージ感を重視する。役者は誰、原作は何部売れている、主題歌は誰が歌う、という具合に映画のクオリティを差し置いてパッケージ感がなによりも優先されて、進んでいく。自主映画はそれとは逆で監督主導なんですね。監督に主導権がなかったのは、ハリウッドの黄金時代と呼ばれる1930年から1940年のころも同じです。収益最優先というのも同じです。ただ、その頃は圧倒的な権力をもっている“タイクーン”と呼ばれるプロデューサーがいて、年間膨大な作品が流れ作業のように製作されていた。そういう中でシステムの創造性というものが生まれた。このようなスタジオシステムの中のプロデューサー主導による製作と、今の製作委員会のシステムの中では、監督の仕事はまったく異なると思います。

――資金的な部分で定義すると。

榎本:集めている資金の質が、業界内の資金か外からの資金かで定義づけられます。業界内の金というのは、配給会社、ヴィデオ会社、広告代理店、テレビ会社などの製作委員会に名前を連ねているレギュラーの企業です。これに対して自主は自己資金も含めて業界外の金を使うことが多い。製作委員会は、ビデオ会社、配給会社の各社の都合がそれぞれあって、業界内の立場、作品に与える影響力などを調整しながら製作委員会が進むわけですね。「この映画を作る」というモチベーションが、監督のものでも、プロデューサーのものでもなくなり、拡散し、その中心にはパッケージ感によるマーケット戦略というあいまいなものが残るということになります。

――製作委員会はリスクの分散という意味もあるのでしょうか。

榎本:リスク分散は製作委員会の一番大きなポイントです。分散はできますが、さっきも言ったように、著作権がばらばらになって、映画製作の主体がぼやけてしまう。ここで一番背後に追いやられてしまうのが監督です。前に出てくるのが俳優や原作です。企業においては、出資を決定するには、やはり会議を開いて社内の合意が必要ですから、無名の俳優を使うとなると「主演誰?知らないな」で終ってしまいます。

――自主映画でのリスク回避の方法は、どのようなものなのでしょうか。

榎本:自主映画の意義のひとつに、大手が目指すようなマーケティングを気にしなくていい、というかマーケティング戦略なんてものはそもそも不可能だという事があります。逆に、そう割り切るためには、相当規模を小さくしないといけないですが。一億くらいのお金を集めておきながら、マーケットなんて関係ないとは言えないですよね。

――製作費も下がると、リスクも下がるという事ですね。

榎本:当然、回収の目標値が下がる。ただし海外に売る場合、購入側は「製作費の何パーセントで買う」という態度が一般的なので、製作費が安いと足元を見られる事もありますね。


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複雑なものを単純化しない伝え方。
露出の数で押す宣伝と<動物化>する観客


――いろいろな分野での経験、視点から、国内興行で成功させる秘訣はなんでしょう。

 
『見えないほどの遠くの空を』
(C)2010「見えないほどの遠くの空を」製作委員会
榎本:今日、良い映画が届きにくくなっているとよく言われますね。ただ、良い映画とか良質であるということはどういうことでしょうか。映画の一つの要素は娯楽です。これはアメリカが徹底的に発達させた。もう一つは芸術という側面、主に1920年代にヨーロッパ、特にドイツとフランスで発展しました。娯楽じゃなくて芸術だという自負が自主にはあるようです。が、僕は自主映画が生き残るためには娯楽性ということも意識しなければならないと思っている。自分の思いの丈をただぶつけて、ピュアな映画ですという風に居直ってはいられないのではないかと。一方、娯楽性=エンタテイメント性が上がれば上がるほど、映画というものは金がかかるという性格を持っています。故に、低予算で面白いものを作るには、ある種の工夫もいる。では、面白ければいいのか、というと、ただ話の目先がどんどん変わって面白かったでは駄目という問題があります。面白さという点ではハリウッド映画にかなわない、パッケージ感が醸し出すお祭り気分ではメジャー邦画にかなわない。自主が目指すべきなのは、複雑で深い面白さだ、ととりあえず言ってみたいと思います。が、複雑なものは観客にはなかなか届きにくい。世の中が複雑になると、単純な味わいをみんなが好むようになる。マスメディアは大味なものを最優先して媒体に載せる。ここには自主の席はほとんどない。その為に、マイクロメディアであるTwitter やブログをどう活用するか、というのはひとつの大きな宣伝戦略に上がってきていると思います。

――榎本監督もTwitterを活用されていますし、今では自主映画の大きな宣伝ツールのひとつになった感があります。

榎本:若い監督や大手の宣伝などがTwitterでよくやるのが、「泣けた」とか「感動した」とか自作を褒められているのをリツィートしているだけでしょう。それでは駄目だと思うんです。自分の作品の複雑さを「泣けた」とか「よかった」とかという言葉に観客がブレイクダウンする。それをそのままリツイートするのは、自分の作品を監督自らフラットにしているような気がする。ならばどうすればいいかを僕自身まだわかっていないんですが、自分の作品の複雑さをあまり単純化しないようにしたほうがいいと思います。

――宣伝の露出度と観客動員は比例しがちですね。

榎本:日本映画の宣伝の問題点は、出演者と監督の広告活動に頼ることです。観客は「この映画は見る価値あるのかないのか」を知りたい。ただ、監督が自作を、俳優が出演作を良く言うのはあたりまえで、これだと観客にとって「観るべきかどうか」はわかりにくいんですね。第三者による映画評論が、広告の全体数から減ってきてしまいます。宣伝自体は華やかに見えるけど、その中に占める映画評論が少ない。映画評論の重要性も宣伝展開の中で下降気味です。そんなことはおかまいなしに、メジャーな映画はとにかく大量の露出量で押しまくって、おもわず目の前にある饅頭に手が出るように選択させてしまうということがあると思います。が、自主はそんなことはない。自主はあくまで作品勝負です。

――アイドル俳優がキャスティングされていれば、ファンだけでもある程度の観客動員を見込める部分はありますね。

榎本:大手の作品は、ビジネスの成否を左右する要因としては、質よりパッケージ感のほうが大きい。自主というのはもう少しアンテナ感度が高い人間がターゲットなので、そこを踏まえてプレゼンしていかないと負ける。自分の作りたい映画を作るだけではダメなんです。

――映画を選ぶ観客側にも問題がありますか?

 
『見えないほどの遠くの空を』
(C)2010「見えないほどの遠くの空を」製作委員会
榎本:観客が<動物化>していっていると僕は繰り返し言っています。もともとはフランスの哲学者コジェーヴの言葉ですが、僕は日本の東浩紀の著作で知りました(「動物化するポストモダン」)。映画観客の<動物化>っていうのは「コミュニケーションを必要としない映画鑑賞」だと思って下さい。たとえば、「あの映画どうだった?」「俺はすごく泣けた」「あ、そ。俺駄目だった」これで終わりです。動物的なリアクション以上に進まない、ということです。大きく当たるためには「泣けた」「笑えた」をひたすらプロモーションしていく。昔は、すくなくともアート映画においてはこうではなかった。例えばタルコフスキーの作品を僕は苦手なんですが、「あれ観てると寝ちゃいますね」と言ったりすると、先輩に「それは見方がよくないよ」と説得される。あまり熱心に言われると、本当なのかと思って評論を読んだり、もう一度観てみようということにもなる。コミュニケーションによって、議論によって、考え方を矯正していく事もありえた。今は、他人とのコミュニケーションや映画批評や評論に自分の考えや感覚を照らしてみるというプロセスが抹消されて「自分の舌に合わなかったら速攻で捨てる」という鑑賞態度に変わってきてしまっていますね。こういう中で、味わいの複雑なものを届けていくというのは結構たいへんだと思うんです。


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プロとアマ、機材的に変わりはない。
問題は、“腕の差”


――製作に話しを移したいのですが。整音に関して以前Twitterなどでも書かれていました。監督は特別に音こだわっている印象がありますが。

 
『見えないほどの遠くの空を』
(C)2010「見えないほどの遠くの空を」製作委員会
榎本:『見えないほどの遠くの空を』は少しファンタジックな要素があるので、環境音に関しては、音声担当と密に話し合いました。世界観(感覚)を重視する映画なので、一部で明らかな音ズレとか、遠いところで鳴っている轟きのような音を薄く引いてもらったりしています。僕は映画の音作りを、台詞に注目して、大きく二つに分けています。セリフがぐいっと前に出る音作りと、セリフを周囲の環境に馴染ませるというか埋没させる音設計。ドキュメンタリー感覚というか、ライブ感覚というか、台詞を多少くぐもらせるような音作りですね。あんまりセリフをクリアーに前に出すとテレビぽくっていやだという人もいます。でも僕はセリフをシャープに聞かせたいと今回は思っていたので、そういうサウンド設計をやってもらいました。
 ジーンズのストーンウォッシュみたいに、ちょっと音を汚す方法というのは、それはプロの技術があって成立すると思う。そういうサウンド設計を意図的にしているからこそ表現たり得ると思います。極端な話、超超超低予算の自主映画の場合は、カメラのモーター音が入っているようなケースがあったりするけれど、これは観ていて相当疲れる。今カメラの精度が上がってきて、レッド・ワンや最近はソニーのF3というカメラも登場しましたし、それらで自主映画を撮ることも今後はどんどん出てくると思う。そうなると、プロの撮影機器と大差はない。つまり、プロの画かアマチュアの画かは一瞬ではわからない。けれど、音は、最初の数秒で、工夫や技術のないアマとプロの違いはわかってしまう。

――実際、作品によってものすごく違いますね。録音と整音ではどちらが大事でしょう?

榎本:当然、どちらも大事です。が、今はマイクも録音機材もいいので、現場で恐ろしいミスさえしなければ、音の善し悪しを決めるのは整音と効果だと僕は思っています。

――撮影はレッド・ワンを使用したそうですね。フィルム撮影に比べてどうでしょう。

榎本:今までフィルム作品もデジタル作品もやっていましたが、デジタルではレッドでの撮影が一番なじみました。韓国映画はほとんどレッドで撮影されているという話を聞いたことがあります。フィルム無しのデジタル上映もすごく多いそうです。統計取ったわけではないので、うかつな事はいえませんが。もう今はフィルムの優位性を力説しても、デジタル化の移行は避けられないと思います。

――編集の石川真吾さんが撮影現場に直接立ち合われたという話を聞きました。自主で超低予算で製作する場合、編集にお金を掛けられないのではないでしょうか。

榎本:今はプロもアマチュアも皆、ファイナルカット・プロというソフトを使ってやるので、あまり機材的には変わりないと思います。使用しているPCが少し遅いか、速いか、モニターが高級かヘボイかという違いしかないと割り切っています。色補正に関しては違いがあるかもしれませんが、

――メジャーのレベルと自主の差がなくなってきているのでしょうか?

榎本:編集においては機材のグレードの決定的な差はない。また、機材のスペックの多少の差は作品に大きな影響を与えない。問題は“腕”の差ですね。これはあります。自主は監督自身が編集をする場合が多いのですが、僕は編集マンの存在を重要視しています。まあ、なけなしの僅かな金をどこに回すかというのは大いに悩むところですが……。一方、撮影においてはカメラ本体ではなくて、カメラ周りの機材に差が出てくるようです。プロも使用するカメラがあっても、レンズがないとか、レールが足りないとか、レールが直線しかないとか。望遠がない、とかですね。そういった限定された状況の中で撮っていかなくてはいけない。これは低予算映画をやりなれているスタッフは、当たり前の前提として撮影プランを用意しますが、僕はよくわかっていないので、妄想ばかりが大きくなっていて(笑)、無茶を言いました。

――予算の少なさゆえに、困った事がありましたか?

榎本:一番困ったのは日数ですね。日数が少ないとOKを出すレベルを下げざるをえない場合がありました。僕の場合2週間の撮影日数だったんですが、それでも、この予算規模ではありえないくらいの贅沢だと言われてまして(笑)。俳優たちの芝居はリハーサルを綿密にやりましたので、現場に入るときには固まっていたんで、カメラNGとか音NGの方が多かったです。

――リハーサルはどれくらいやったんですか?

榎本:全体で4,5回やりました。あちこちで言ってますが、僕の演出は俳優にやりたいようにやらせてみて、そこから微調整していくというものではなくて、まずは一旦棒読みで読んでもらって、そこから徐々に色をつけていくやり方です。台詞のスピードや高さ低さは僕が指示を出しています。別に、このやり方がいいというわけでもなくて、ひとつの方法なんですね。もちろん俳優の内側から沸きあがる感情を重視する演出もありますし、それも間違いじゃない。

――今回の演出方法を選ばれたのは、どうしてですか?

榎本:自主映画の主流は、自然な演技で、場合によっては「セリフを変えてもいいよ」というように、俳優の素の存在感を尊重したやり方が多いような気がします。僕にとっての役者というのは、まずは肉体労働者で、僕のイメージ通りに発語し、身体を動かしてくれる人だと捉えています。同じようなことを小津安二郎も言っています。「俺は植木屋なんだから、植木が勝手な方向に枝を伸ばしてもらっちゃ困るんだ」と。ただ、これは役者にとってはかなり残酷な演出方法だとは思います。役者としての生身の存在感がそぎ落とされるわけですから。しかし、それを越えて<何か>が残るはずだ、それこそが俳優の真の存在感なのだ、と小津安二郎は考えてるんじゃないかと思うんです。ですが、映画というのは魔物ですね、今回の映画を撮影していて、役者によって自分の書いた台詞を喋られると、その意味が書いた時とまったく違ってサウンドすることがありました。これは、役者によって教えられた部分ですね。映画というのは一筋縄ではいかない。映画を撮る事によって、映画とは何かということを考えていた、そんな気がします。



 
  Profile: 榎本憲男(えのもと・のりお)

1987年銀座テアトル西友(現・銀座テアトルシネマ)オープニングスタッフとして映画のキャリアを始める。1988年同劇場支配人。シナリオを学び1991年ATG脚本賞特別奨励賞受賞。その後荒井晴彦に師事。1995年テアトル新宿の支配人に就任。日本のインディペンデント映画を積極的に上映しつつ、荒井晴彦監督『身も心も』(97)をプロデュース。98年より東京テアトル番組編成を経てプロデューサーとなる。ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督『1980』(03)、『罪とか罰とか』(09)、井口奈己監督『犬猫』(04)、山田あかね監督『すべては海になる』(09)、などをプロデュース。最新作は、深田晃司監督『歓待』(コ・エグゼクティブプロデューサー)が本年公開を控えている。脚本家としてはEN名義にて小松隆志監督『ワイルド・フラワーズ』(04)、筒井武文監督『オーバードライヴ』(04)、深川栄洋監督『アイランドタイムズ』(07)、を執筆。 2010年、東京テアトルを退職。本作品にて監督デビューを果たした。

映画『見えないほどの遠くの空を』
(配給:東京テアトル+コミュニティアド/2011年6月11日(土)ヒューマントラストシネマ渋谷ほか、全国順次ロードショー予定)
公式サイト:http://miesora.com/


(C)2010「見えないほどの遠くの空を」製作委員会

   

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