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三宅隆太インタビュー

学生の頃から脚本・監督・撮影などをマルチにこなし、ホラー作品を中心に様々な場面で活躍してきた俊英・三宅隆太。彼の『呪怨 白い老女』(2009)以来の監督作となる映画『七つまでは神のうち』が、8月20日(土)に公開。自ら原作も手がけた完全オリジナルとして期待の高まる本作は、サスペンス・スリラーと銘打たれつつもジャンルの枠を広げたネクストレベルの作品に仕上がっている。最近はラジオやイベントでの露出も増え、大学講師としての一面もうかがえる卓越した話し手としての面もクローズアップされている彼に、作品や自身の活動についての話を聞いた。

取材・文/田道富久

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「七つまでは神のうち」という言葉は
いつか題材にしたいと思っていました


 
『七つまでは神のうち』
(C)STARDUSTMUSIC,INC
――『七つまでは神のうち』というタイトルの由来は?

三宅:大もとになったのは「七つまでは神のうち」という実在する言葉です。明治以前、乳幼児死亡率がまだ高かった頃、子供が健やかに成長するのが難しかった時代に、7歳ぐらいまでのお子さんが栄養失調とか、いろんな理由で亡くなってしまうことが多かったと。そういう時に親御さんの納得の仕方として、7歳までの子供は神様から一時的に命をお預かりしている黄泉の国の存在で、ある意味人間ではない。だから、もし神様が望んでおられるのであれば、いつでも子供を神様のもとへとお返ししなければならない、という考え方がありました。今だと民俗学の世界で残っていたりしますけど、当時は親御さんの率直な気持ちというか。何らかの理由で子供が亡くなったり行方不明になった場合に「神のもとへ帰ったのだ」というふうに納得するために「七つまでは神のうち」という言葉があるということがすごく興味深かったんです。ただ場合によっては、口減らしのある種の言い訳として機能していた部分もあったのかなとも思うんですよね。その辺も含めてかなり興味があって、いつか題材にしたいなとは思っていました。

――宇多丸さん(RHYMSTER)の推薦コメントにも「罪責と贖い」という言葉がありましたが、監督の作品の多くに共通するテーマが今作にもやはり現れていますね。

三宅:大体いつもそういうテーマになってしまいますね、ストーリーに関係なく。個人的にこのテーマが来てしまう理由ははっきりしています。小学生の頃、将来一緒に映画を作ろうと約束していた友人を殺人事件で喪っているんです。僕がいじめられっ子だった頃に彼が助けてくれて、そのときに将来の約束をしたんですけど、僕が新しい友達ができたりしてるうちに、彼への感謝の気持ちも、彼との約束もだんだん忘れてしまったんですよね。そのうち学校もバラバラになって、10代の後半ぐらいになった頃に、ある日突然、彼が亡くなったという報せがきたんです。最初は事故だって話だったんですけど、よく聞いてみたら殺されてしまっていて……。その後、お線香をあげに彼の実家に行ったときに、彼のお母さんから聞いたんですが、亡くなる前日に突然僕の名前を口にしたそうなんです。「俺は将来、三宅と一緒に映画を作る約束をしてるんだ」と。その話を聞いたときに、ものすごくショックだったんですよね。僕はその約束をすっかり忘れていたというのに、彼は覚えていた。しかも、僕は彼に助けられた感謝すらも忘れていて……。帰り際に彼のお母さんから「“映画のひと”になってね、お願いだから」と涙ながらに言われました。僕にとってはすごく罪悪感が残って、と同時に、何としてでも、彼のお母さんの願いを叶えなければならないという呪縛もありつつ、現在に至っています。もしも彼が幽霊となって僕のところに現れたとしたら、「ごめんなさい」という言葉しか出てこないでしょうね。ここ数年作っている映画の中で「未清算の過去」が題材になっていて、それに対して主人公が詫びるというシーンが必ず入ってしまうのは、紛れもなく僕自身が投影されているんだと思います。

――同じくコメントで高橋ヨシキさん(アートディレクター/ライター)が「〜数々の名作ホラー映画へのオマージュが堪能できる作品」という言葉を寄せられていましたが……

三宅:多分、『オーメン』は串刺しのことなんだろうなとは思ったんですけど、他は全然わかりませんでした。特に『姦婦の生き埋葬』という作品は僕は見てないんですよ。生き埋葬というくらいだから、生き埋めのシーンがあるんだろうなと想像はつくんですけど、『死霊のはらわた』と『エルム街の悪夢』というのが、どこを指しておっしゃっているのか。僕は全くオマージュのつもりで撮っていないので、正直わからないです。今度お会いしたら逆に教えていただこうかと(笑)。

――生き埋めといえば少し前に洋画でそういう作品がありましたね。

三宅:『リミット』ですよね。ちょうど「七つまでは神のうち」の撮影が始まる直前に公開してたんで、じゃあ棺桶のセットの参考に見に行こうか、なんていって。板でいいんだ、こりゃ安くていいやってスタッフと話したりしてましたね(笑)

――主演の日南響子(ひなみきょおこ)さんについてうかがいます。演技経験の少ない彼女をヒロインに選ばれた理由は?

 
『七つまでは神のうち』
(C)STARDUSTMUSIC,INC
三宅:オーディションをしたんですが、上手い人は何人もいて。なかには、本当にかなり上手い人もいたんですよ。ただ何かしっくりこなくて。何だろうな?と思っていたあたりでちょうど彼女が入ってきて。はっきり言うとキャリア真っ白なんですよね、モデルとしてはすでに活躍していたんですけど、演技らしい演技をしたことがない、ほとんどお芝居が初めてだという状態で。ただ何ですかね、会った途端に「あ、繭だ」と思ったんですよね。後で本人が「私はそんなにトラウマ抱えてないですよ」と言ってたんですが、そういうことじゃなくて、和泉繭という役柄と通じる感性の鋭さを感じたんです。演技の経験がない彼女を主役に据えることに不安の声もありましたし、僕自身も明確な勝算があったわけではないんですけど、でもなぜか大丈夫な気がしたんですよね。こういうジャンルをやってると、若い新人の女優さんとかアイドルのような演技経験があまりない人と仕事をする機会が多いんですが、僕は基本的にそこはあまり心配していなくて、むしろテクニックで「カタチの芝居」をされちゃうとジャンル映画って簡単に型にはまってしまうと思うんですよ。それとは違うことをしたい、「キモチの芝居」を撮りたい、といつも思っているので、彼女にも言いました。「上手くやろうとしないでください。ただ、ひとつだけ約束してください。10年たってキャリアをつんで、この映画を見直したときに顔が真っ赤になって「うわ、わたし今ならもっと出来るのに」と言うのは全然いいけど、撮影が終わった直後に「もっと出来たのに」と言うのだけはやめてください。いまの日南響子に出来ることを全部やってほしい」と。それにはどうしたらいいかというと、繭という人がどういう人なのか(考えて)、繭になってくれ、カタチで捉えるんじゃなくて繭になるんだよ、と言ったんです。そういうふうな心理的な演出をしていって、それに対して彼女が、最初はもちろん戸惑いがありましたけど、撮影の何日目かのときに、ある瞬間に突然つながったんですよね。役と本人が。それを本人が実感として捉えた瞬間があったんですよ。それは僕の方にもわかって。で、「もう大丈夫だ」という感じになって、そこからはもう「繭」でしたよね。

――撮影はロケが多かったと思いますが、エピソードや印象に残ったことはありますか?

三宅:ロケ先の廃校は、僕は何回も使ってるとこなんですけど、2階の奥のほうにちょっとヤバい部屋があるんですよ。以前、別の作品でロケに行ったときに、そこだけおかしい感じがあって「嫌だね……」という話をしていたので、今回は最初からその部屋を使うシーンを書かないようにしてたんです。ただ、僕としては撮影が始まるといろんな人の強い気を感じるんです。そもそも、スタッフやキャストって「気」が強い人が多いんですよ。「気が強い=怒りっぽい」というんじゃなくて、「活気」の気だったり、「色気」の気だったり、ひととして魅力的という意味での「気が強い」なんですけどね。そういう状況下で、架空の人間たちを生きている人間と捉えてドラマを構築し、その人たちが生きたり死んだりというのを描いてゆくのが映画の現場です。そんな「気」の強いクリエイターたちが集まってるので、その場にいないはずの、違う「気」が混じってくるのも、そんなに不思議なことだとは思ってないんですよね。今回も、まあ色々あったんだろうとは思うんですけど、忙しい現場で猫の手も借りたいっていう感じだったんで、仮に幽霊がいたとしても、「ちょっとそれ運んどいて」と頼みたいぐらいの勢いでした(笑)

――小説版についてうかがいたいんですが、映画と少し違う部分がありますね。例えば無間地獄設定ですとか。

 
『七つまでは神のうち』
(C)STARDUSTMUSIC,INC
三宅:無間地獄については、映画ではオモテとしては描いてませんが、充分意識して撮っていました。普段から、現実というものはひとつではなく、ひとの数だけ存在するもので、実際には同じ現実を他者と共有するのは不可能なんじゃないか、と考えています。ただ、だからといって、他人と関わることを諦めるのではなく、個々の現実を共有するために、互いに認識している現実をすり合わせていくことにこそ生きる意味があると思ってるんです。僕の場合、そのひとつが映画を作ること。このまま何もせずに死んでしまったら、僕が見てきた現実は、僕が見たままに終わっていくのではないか、という想いがある。そう考えたときに、ひとつの映画のなかで、いろいろなキャラクターが見つめた現実を同時に描いていくのが面白いんじゃないか、映画ならではの可能性なんじゃないかと思ったんです。ところが、通常のジャンル映画の場合、「これが唯一の現実です」と描くのが正攻法だったりする。この人は主人公です、だからこの人は善人です。一方、この人は犯人です、だからこのひとは悪人です、という具合に。それって実はけっこう乱暴なんじゃないかと子供の頃から思っていました。主人公が敵対している人物の視点に立ったら、現実が違って見えるのは当たり前です。例えば、スター・ウォーズシリーズ。今となってはエピソード4で初めてダース・ベイダーが登場するシーンを見たときに何を思うかというと、「あー、お前もいろいろ大変だったよな、オレわかってるよ!」ってなる。新3部作が創られたことで、意味が変わってしまって、エピソード4の見え方は変わった。つまり、現実が変わってしまった、と。ですから、無間地獄という考え方は撮影現場でも実はあったんですが、キャストやスタッフ全員に言うと混乱するので、一部の人だけに限って話してました。意識的になって欲しくないからです。無間地獄に墜ちたひとを演じたり、無間地獄を映しているという意識で撮影したり、照明をあてたりしてほしくない。「そういう意識」で撮ったり演じたりしちゃうと、画面には「無間地獄に堕ちた人」は写らないと思うんですよ。

――当人は状況を理解していないわけですからね。

三宅:ええ、そうなんですよ。だから、映画はミステリアスな余白を残す感じにしておいて、小説のほうで詳しく書いたっていうことですね。


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映画のセクションの中で
脚本は自分に一番遠いと思ってました


――三宅監督のこれまでのキャリアについてお聞かせください。

三宅:大学一年生のときに若松プロダクションに入って、助監督をはじめました。連日連夜「総括」を受けながら(笑)現場で勉強してましたね。そのあと何本か助監督をフリーでやって、それから撮影部・照明部のほうに移行して、映画やテレビドラマの現場で助手の仕事をたくさんやりました。大学三年生のときに、深夜ドラマでカメラマン兼照明マンとしてデビューして。そのあとPVの監督になって、それからVシネマの監督をして……全部学生の頃の話です。脚本家になったのは大学を卒業してからですね。スクリプトドクターはそのさらにあとです。キャリアの後半にいくにしたがって脚本関係の仕事に変わっていったということですね。

――一番やりたかったのは脚本だったんでしょうか?

三宅:いや、全然(笑)。むしろ、脚本家が一番遠いと思ってましたね。僕は小中高と国語の成績がずっと2だったし、本を読むのも文章を書くのも大嫌いでした。だから、文字を書いてお金をもらう人生なんて考えられなかった。さきほどの話のとおり、亡くなった友だちの為にも、いつかは「映画のひと」にならないと、とは思ってましたけど、脚本家だけはないな、と(笑)。ただ、いま実際に自分の生活が脚本中心になってみて、実は一番向いてたのかなと思います。

――脚本には小説と違って理数系の能力が求められるというようなことでしょうか?

三宅:いや、それとも違ったんですよね。どうして自分が脚本に向いてると思ったかっていうと、結局、人の心を感じ取ったり見つめたりするのが脚本の本質だと分かったからなんですよ。それは子供の頃から自分が一番自然体でやってきたことだったんですよね。感じ取りすぎて、たまに死んでるひとの心(心霊)も見ちゃったりするんですけど……(苦笑)。いずれにしても、大事なのは美文を書くことじゃない。ひとの心なんだ、それが脚本なんだと思ったら、映画のセクションの中で一番向いてたなと気づいて。

――高橋洋さんが、ご自身や鶴田法男さんは理論派に見られがちだが実際は本能派だとおっしゃってましたが、また違う視点ですね。

 
『七つまでは神のうち』
(C)STARDUSTMUSIC,INC
三宅:僕のアプローチは違いました。ですからここ数年の作品で「メンタルと心霊」というモチーフに力を入れているのは、だんだん自分に正直にシナリオを書くようになってきているからだと思うんです。スクリプト・ドクターの仕事としては、もちろん構造的にシナリオを見ますから、数学的だったりもしますけど、作り手の仕事として考えた時、自分がナチュラルに書くということになると、どちらかというと論理的というよりも、感情的。心理学とかカウンセリングに近い感覚ですね。あと実は、シナリオ執筆は芝居にも近いなと思っています。それを実感したくて、3年前に1年間、仕事をしながら俳優の学校に通ったんですよ。もちろん、恥ずかしい思いもいっぱいしました(笑)。普段、監督としていろんなことを俳優に言ってるのに、逆に先生から怒られて(笑)。でも、エチュードから何からいろいろやってみて、役者がどういう心理で脚本を捉えるのか、どういう風に演技プランを発案し、どういう心理で本番に臨むのか、もし、そのプランを却下された場合、どういう心理状態に陥るのかを体感しました。で、案の定、僕が脚本を書くときに役柄の人生について考えるのと、まったく同じだったんですよね。俳優として役に入っていく感覚が。ちょっとでも自分が嘘をついたり自分の意識が入ると、やっぱりバレるんですよね、芝居をしてて。「お前いま集中力とぎれただろ」って言われて、「あっ!」と。脚本を書いていて、台詞が思いつかなくなる時とよく似ている。このことを再確認してから、僕は脚本を書くときに、俳優が役に入るようなアプローチに変わったと思いますね。だから、論理的な映画にはならない。この点がよくラジオのリスナーさんに誤解されるところでもあるんです。番組でスクリプト・ドクターとしてしゃべってるときはすごく論理的なのに、なんであんたの撮る映画はいつも感覚的で抽象的なんだっていうふうに言われるんですけど、それは単にクリエイターとしての僕のアプローチの仕方と、ドクターとしての方法論が違うだけなんです。こういう両面からアプローチをしてる人があまりいないので、なかなかご理解いただけなくて。言ってることとやってることが違うとか、作り手として失敗してるんじゃないの? と言われたりもします。でもそこがまた楽しいところかなと(笑)。この辺りの話は次回のタマフル(8/20放送)で話そうかと思ってます。

――TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」スクリプト・ドクター特集の第2弾ですね。

 
『七つまでは神のうち』
(C)STARDUSTMUSIC,INC
三宅:そうですね。スクリプト・ドクターというのは日本にそんなに数がいないので、いろんな人がいろんなやり方をしていいと思いますし、僕もそういう意味では僕流のやり方をしてるんですね。スクリプト・ドクターの仕事は映画のフォルムを完璧にすることだと、一部で思われてるようですが、それは大きな誤解です。作品の自由度が落ちてみんな同じような形のフォルムになっちゃったらつまらない。もちろん、場合によっては、そういうオーダーもあります。ただそれは、それこそ三幕構成だなんだっていう「型」ですよね。「型」が状況を救う場合も確かにあります。でも、一番重要なのは、うまくいかないリライトを前に悩んでいるプロデューサーや脚本家からポテンシャルを引き出して、自意識に囚われない平常心の状態でのベストを探ってもらうことなんですよ。ここがなかなか一般の方に理解してもらえないところなんですが、どんなプロでもメンタルのぶれが生じるぐらい、時によってリライトは大変な事態に陥るものなんです。もちろん、スポンサーやクライアントからのオーダーでいろんな要素が入ってくるのは当たり前で、プロとしては当然対応すべきことですが、限度があります。さっきの俳優的アプローチで言うとひとつの物語のなかで、脚本家が違う役を演じているような感覚に陥ってしまうことがある。その作家さんの自意識が邪魔してしまったり、間違った方向にプレッシャーがかかってしまったりする。なかには精神的に追い詰められて、自殺してしまったひともいます。これはとても危険です。映画の企画には、ハイ・コンセプトと呼ばれるシンプルなハリウッド・スタイルのものと、ソフトストーリーと呼ばれる作家のナチュラルな目線で描くものがありますけど、このソフトストーリーのスクリプト・ドクターはすごく大変なんです。その作家の倫理観に則って、作家がどのように世界を見つめているか、言ってみればその作家独自の正義感を発見し、リライトが停滞した場合は、作家のメンタルのぶれを台詞やト書きから一刻も早く見つけなくてはいけない。ですからこの仕事は、外部からの分析と同時に、内部からの感情移入が必要で、プロファイリングに近いんです。きわめてメンタルな仕事といえます。論理的な部分と感情的な部分の両立が本当は必要で。実は僕自身、この一年くらい認知行動療法を中心にしたカウンセリングの専門教育を受けていて、もうすぐ資格を取るんです。個人的には、心理カウンセラーとしての機能が、今後の(特に日本の)スクリプト・ドクターにとっては重要な要素なんじゃないかと考えています。

――『七つまでは神のうち』について一言お願いします。

 
三宅:よく映画の舞台挨拶とか自分の作品の話をするときに「この映画は二度見るとわかります」と言う人がいますけど、ちょっとダサいなと(笑)。一度でわかるように作ればいいのに、と思うんです。ただ、そう思いながらもこの映画に関しては二度見ていただきたいと思っています。なぜかというと、視点というものが重要なモチーフになっている映画なので、一旦見終わると、お客さんの視点が切り替わるはずなんですよ。そうすると同じストーリーが違って見えてくる、それこそが実はこの映画にとって最も重要なことだと思うんです。ひとつの事象に対して、ちがう視点に立って見つめ直してみると、立場が逆転する。そうすると、何が見えてくるだろうか、どういう想いに至るだろうか、と。ですからぜひ、気に入っていただけたら二度目、ご覧いただけると嬉しいなと思います。

――では最後に、今後の活動予定やチャレンジしたいことなどお聞かせください。

三宅:心霊というモチーフは一生こだわっていきたいと思っています。ただこれは一般に世間で思われているような、髪の長い女が這ってくる的な幽霊のことではなく、あくまで心霊です。「心霊=心の霊」ですね。対象が生きているか死んでいるかは必ずしも重要ではない。ジャンルやストーリーに関係なく、ホラーですらなくてもいいんです。心霊という要素についてはこれからもいろんな可能性を探っていきたいと思っています。



 
  Profile: 三宅隆太(みやけりゅうた)

1972年生まれ。若松プロダクション助監督を経て、フリーの撮影・照明スタッフとなり、映画・TV・ドラマ・PV等に多数参加。95年初監督作『風のない部屋』(16mm)で「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」審査員特別賞受賞。その後PV監督として商業デビュー。99年映画『飛ぶは天国、もぐるが地獄』(監督:若松孝二)で撮影と脚本を兼任。以降、脚本業と監督業を中心に活動中。主な作品に、映画『案山子』(01)、『呪怨 白い老女』(09)、『怪談新耳袋 怪奇』(10)など。TVドラマ「ほんとにあった怖い話」(CX)、「ケータイ刑事」(BS-TBS)、「古代少女ドグちゃん」(MBS)、「女子大生会計士の事件簿」(BS-TBS)、「時々迷々」(NHK教育)、「恋する日曜日」(BS-TBS)ほか多数。また日本では数少ないスクリプト・ドクターとして、国内外の映画やTVドラマなどのリライトを多数手がけている。近年は数多くのメディアにも出演。特にTBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」での鋭い映画分析は評判で、リスナーからの厚い支持を受けている。

映画『七つまでは神のうち』
(配給・宣伝:S・D・P/2011年8月20日(土) シアターN渋谷ほか、全国順次ロードショー)
公式サイト:http://nanagami.com/

(C)STARDUSTMUSIC,INC
   


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