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堀川中立売

森直人小原治那須千里井出健介暉峻創三西尾孔志佐藤佐吉大槻貴宏宇田川幸洋石川多摩川




 柴田剛監督の映画を見ていると、ある種“懐かしい”気分に襲われる。それは80〜90年代の日本アンダーグランウンドのDNAを濃厚に感じるからだ。ノイジーな亀裂をあえて導入した映像とサウンドデザインで世界を撃とうとするハードコア志向。いま、そのラインの数少ない後継者として目立つ存在は、彼と『カインの末裔』『USB』の奥秀太郎くらいではないか。
 そしてこの『堀川中立売』も、やはり同様の感慨を与えてくれる新作だ。現時点の柴田の代表作と言える、重度脳性麻痺の主人公・住田雅清の強烈な存在感が話題 となった『おそいひと』が、原一男や松井良彦の息子だとしたら、今回の父親はおそらく山本政志である。京都で何もせずに暮らすダメ人間たちを現場目線でと らえた解体的エンタテインメント。『ロビンソンの庭』のコミューン感覚と白昼夢的サイケデリア、『てなもんやコネクション』の猥雑な笑いが合体したような作風に加え、主演に「オシリペンペンズ」の石井モタコ(♂)、音楽監修に「neco眠る」の森雄大という大阪発インディーズ・バンドの寵児を迎えている“ジャンル越境性”も山本的。この映画は関西アンダーグラウンドの現在の渦を記録した文化的ドキュメントの側面もあるだろう。
 これまた山本的な物言いを使えば、「アホ」として生きる登場人物たちの非生産的な営みは、やがて暴動へと発展する。このカウンターが機能しにくい時代に、愚直(=ドン・キホーテ的)にも思える柴田的“映画の暴動”がどれだけの効力を発揮できるのか。今後の展開にも期待したい。

      Profile:森直人
映画評論家。多数の映画パンフレットをはじめ「キネマ旬報」「クイック・ジャパン」などで執筆中。著作に「シネマ・ガレージ――廃墟の中の子どもたち」(フィルムアート社)などがある。




 『堀川中立売』を初めて観た09年東京フィルメックスから一年。映画の世界に生きる立場から、その間もジャンルや新旧の分別なく手当たり次第映画を観る毎日を過ごしました。その度に「堀川」の記憶が脳裏に甦り、他に比べる作品が無いことを、イメージではなく、年間500本を超える映画体験の中で思い知らされたのです。
 本作は劇空間を彩る音楽の性格上、フィジカルな側面が強烈です。「説明を求めてはいけない」「物語を追わないことで成立する」といった周囲の作品評価も、どこか音楽のそれと似ています。しかし、劇場スクリーンに投影された光の中の「堀川」に魅せられた身としては、やはり映画としてこだわりたい。
 荒唐無稽な劇空間の隙間に、対象と向き合う柴田剛の眼差しを見逃さないで欲しい。混沌としたパラレルワールドに現代社会の構造「資本主義の功罪」「「メディアの悪感情」を垣間見せながら、その先にある何かを掴もうとしている。始めて観た時の印象は、新しいものに手が届きそうなトキメキにも似た予感だったのかもしれません。編集が完了したばかりの最終形態「堀川中立売」を見終えた今、その思いを強くしました。既視観の外を覗かせてくれる柴田剛は、魔法の力をだんだん信じなくなった映画界において、奇跡のような監督の一人なのだと。

      Profile:小原治
ポレポレ東中野スタッフ。上映作品の選定並びに具体的な上映方法を作り手と話し合いながら、最も実りある上映成果を目指す。




 『堀川中立売』という映画を二回観た。一回目は2009年の東京フィルメックスで、いろんな人たちがひっきりなしに出てきて好き勝手に騒いでいたが、その騒がしさに包まれているのは心地よかった。
 そして最近、再編集されたものを観た。騒がしいのは相変わらずだったが、二回目ということもあり、前回よりはだいぶすっきりとまとまって見えた。ところが後で他の人に内容を説明しようとして、自分がストーリーをまったく理解していないことに気づいた。
 ホームレスとヒモ。社会の底辺にいる二人の男は無駄に広い部屋でひとつの布団に交代で寝起きし、あやしげなネット調査を続ける。現実には何も生み出さないように見える時間のなんと贅沢なこと! だがそんな彼らは世間から孤立しているようで、実はしたたかにサヴァイヴしている。二人が退治する「妖怪人間」にしても同じで、地球征服であれ犯罪であれ、誰もがそれぞれのやり方で世界に関わろうとしているのだ。
 終盤、そうした異形の者たちが狭い長屋街にどっとあふれ出す。大勢の生き物がわらわらと動き回っているエネルギーが感じられるだけで浮き浮きする。善悪入り乱れてのお祭り騒ぎはクストリッツァさながらで、あきれるほどにたくましい。もちろんつっこみどころもたくさんあったが、勢いに流されているうちに、二回とも映画はつつがなく終わっていた。なんだか騙されたような気もするけれど、それも悪くないなと思った。(了)

      Profile:那須千里
映画系文筆業。ムック、パンフレットの編集や「クイック・ジャパン」「サイゾー」等の雑誌にて執筆。11/13〜12/10、渋谷ユーロスペースにて『映画一揆井土紀州2010』開催。12/18、『キック・アス』公開。どうぞよろしくお願いします!




 奇妙な町だ。 曖昧で変テコな人々が愛し合い、すれ違い、やがて戦争となる。 京都によく似たこの“京都”という町では、なるほど「どんつき」という言葉にふさわしく、 曖昧なままの誰かと誰かが路地で唐突に突き当たり、出会う。 だが、それらは互いに結びつくことはなく、散らかったまま。映画のカットとカットも同様で、あっけらかんと現れては消えていくのだが、 その曖昧に積み上げられたものを、勢いよくひっくり返す後半が気持ち良い。
 そのお祭り的な戦争の中で、恋人のピンクローターを妖怪に向かって振り回すニートが何故か泣けた。 相棒のホームレスと一緒に、訳も分からずとにかく今一番生きている、という顔で暴れまわる。
 この支離滅裂な世界の中に柴田監督が込めた批判精神は鋭い。 下世話な週刊誌の広告の様にイメージだけを押し付けてくるテレビ番組や、元・少年加害者の現在を興味本位で追いかけ回す我々にのみ無邪気な匿名性がある、と言わんばかりの目線加工。 だが、柴田監督の視線は、家の壁の隙間から外の世界を日がな見つめ続けるあの小学生の視線にこそあるのではないか。
 雨の中さまよう元・少年加害者に、自分の大切なお守りを差し出す小学生の優しさが、 この映画のみならずスクリーンのこちら側の世界までも、少しだけ救ってくれる。
 とにかくは、頭の中に「?」の山を築きながら、この奇妙な世界を単純に楽しんでいただけたらと思う。 僕が読んだ柴田監督のインタビューでは、この映画は変わり続けているとの事。 公開時にどうなっているのか見当もつかないが、 母親に向けた暴言を見逃されず凄まれる女の子の、あの恐怖に歪んだ顔だけは残っていてほしいと思う。 夢に出てくるほど笑ったから。

      Profile:井手健介
吉祥寺バウスシアター勤務





 京都の長閑な路地裏をとらえた開巻部が一時的に予感させる世界とはおよそ180度別の世界が、その後約2時間にわたって展開する。北海道を舞台の半分に定めた中国映画『狙った恋の落とし方。』は、同地への中国人観光客を激増させる効果をもたらしたが、『堀川中立売』が京都や堀川中立売界隈に観光客を激増させることは、おそらくないだろう。映画は、その舞台に対して叙情的な共感を誘おうとは全くしていないからだ。
 そこは、ながらく地元に住み着いてきた同郷人同士が寛ぐ場所ではなく、どこからやってきたとも知れぬ(なかには遠くの刑務所や宇宙からやってきたと思しき人物も含む)魑魅魍魎たちがまるで妖怪映画のように跋扈し、黒社会映画のように勢力争いを繰り広げ、一方でサラリーマン映画のように依存し合う、ひどく雑然としていて過酷な場所だ。そして柴田剛映画の通例を踏襲して、そこにフツーの人は誰一人生きていない。誰もが多かれ少なかれ怪物のような顔をしている。
 この、世界と宇宙の全てが路地の一角に集結し、閉じ込められたような場所で、映画は風景の美しさを切り取ることよりも、事態の核心にいきなり切り込むような手つきで、彼ら怪物たちの交錯が造成するドラマを直截的に抉り出していく。そのなりふり構わぬもの凄いスピード感こそが、柴田剛映画の特質だろう。2時間3分45秒の上映時間が過ぎた時、映画はまだ始まったばかり、いやこれから本題が始まろうとしているかのような錯覚さえ、覚えさせられるほどだ。

      Profile:暉峻創三
映画評論家。アジア映画に造詣が深く、長年、東京国際映画祭「アジアの風」部門のプログラミング・ディレクターを担当。現在は大阪アジアン映画祭などのプログラミングや、映画マーケットでもその手腕を振るう。




 4年前のとある深夜。僕がやってた大阪のバーで、酔ってカウンターでクダを巻いていた柴田剛は「俺にはノブみたいな映画は撮れねぇ」と呟いた。彼の言う「ノブ」とは同じ大阪芸大のOBである山下敦弘の事で、もちろん山下監督を批判しての言葉ではなく、酒の酔いも手伝っての敗北宣言にも似たリスペクトの言葉だった。
 そこで僕は言った。「ゴー君は等身大の青春映画より『ゴジラ』みたいな映画を撮るべき才能なんだって!」 すると彼は「そうだ!俺『スターウォーズ』が撮りたい!」と立ち上がった。そして今、ようやく完成した。『堀川中立売』。数年後には『ジェダイの復讐』や『帝国の逆襲』が作られそうな立派なタイトル。確かに等身大青春映画が主流な今の邦画界じゃ怪獣映画やSF映画なんて異端だし、そんな予算はなかなか通らない。
 しかし柴田剛は「『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』方式(本人談)」で『スターウォーズ』みたいな映画を日本で作った。「『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』方式」がどんな方式かは柴田剛にしか分からないが、ノリノリイケイケで撮られた事だけは分かる。結果、凄い作品が出来上がった。どれくらい凄いかと言うと、これこそ松本人志が実現したかった映画な気がするし、ビートたけしの『みんな〜やってるか!』のダブ的解釈な気もする。とにかく僕は柴田剛の最高傑作だと思っているし、何度も鳥肌が立つほどカッコいい映画だとおススメしたい。
 さてこの作品の正しい鑑賞の仕方だが、「あなたが初めてライブハウスに行った時」を思い出して欲しい。最初は周りのノリに戸惑いながらも、恥ずかしさを少し我慢して、音のグルーヴに合わせて身体を軽く揺らせてみると、あら不思議。気がついたら手足がちぎれそうなくらい踊っている自分に気づくはずだ。石井モタコと山本剛史という異才の轟音グルーヴはもちろん、新人(それにしても少女キララといい、柴田剛はすごい新人を見つけるのが上手い)野口雄介のエッジの利いたドープなビートには本気で踊らされた。陽気でカッコいいダンスミュージックの流れる、星形にキラキラ光る床の上で、光が降り注ぐ中を熱狂的に踊り狂う妖怪達。クラブ『堀川中立売』に今宵も踊りに行きたい。嗚呼、あそこは夢のような場所なんだ。

      Profile:西尾孔志
元CO2映画祭ディレクター。映画監督。現在、『デタラメ元年』と『ゴクラク鳥』の2作品を準備中。『ナショナルアンセム』DVDはUPLINKから発売中。




 どんな映画ですか?と聞かれたら「そらあんた、むちゃくちゃでござりますがな!」と答えたくなる映画です。内容を思い出すだけで頭の中がグニャグニャしてきます。こんなむちゃくちゃなの最近ではリンチの『インランド・エンパイア』、カウフマンの『脳内ニューヨーク』、いやいやもっと言えば山本政志の『てなもんやコネクション』以来でしょうか。でも『インランド〜』や『脳内〜』の10倍はサービス精神旺盛ですし、アホさ加減は『てなもんや〜』と拮抗する10年、いや20年に一本のむちゃくちゃ映画です。だから見所だらけです。全シーン勝負しまくりです。なので話についていけない人でも間違いなく最後まで楽しめます。映画から放出されるパワーも半端じゃないですよ。相当覚悟して見に行かないと映画終わった時に立ち上がれませんよ。そして何かわかんないけど俺も頑張らなきゃって気になります。笑えます。むちゃくちゃ笑えます。笑えてハラハラします。で、時々エロい。映画全体に妙な色気が漂っている。で、堂々たる青春映画です。いい味だしてる主演の石井モタコ、山本剛史もさることながら野口雄介。この野口雄介って誰ですか?!全然見たことない人でしたけど本当に人を殺したことがありそうな圧倒的存在感でした。
 昨今のイマイチ映画が溢れていく日本映画界においてこんな凄まじい映画体験できる機会はそうそうないですよ。そしてこの映画に衝撃を受けたあなたは誰にも具体的にこの映画の凄さと面白さを説明できないもどかしさでグニャグニャするはずです。

      Profile:佐藤佐吉
脚本家、映画監督まれに役者。脚本作品として『殺し屋1』『オー!マイキー』、監督作品とし て『東京ゾンビ』、出演作品として『キル・ビル』などがある。




 現実を見渡してみて、何か自分一人の力や数人の力では変えられない問題が多そうに見えるのが、今世間に漂う閉塞感だと思っています。で、最近の映画の中、特に実写のフィクションの中にも、それが充満している気がしていて、それは、そういう問題をエンターテインメントにすることをもう諦めているからなのかな、とも思います。でも、映画の中って恐らくもっと自由で、我々は妖怪とだって、マスコミとだって、一般庶民の持つ悪意とだって、どんな社会問題とだって闘える。そして勝てるし解決できる。『堀川中立売』は、そういう映画です。乱暴な言い方をすれば、上手くまとめたとか、分かりやすいとかは問題ではなく、そこに堂々と挑んだという点で、僕の評価は既に高いのです。で、この挑戦は、現実世界にも通じることだと思いますし、現実世界で何か起こる前に先んじて、映画として、作り物として登場したことが、映画をやっているものとして素直に嬉しいのです。

      Profile:大槻貴宏
ポレポレ東中野支配人。下北沢トリウッド代表。作品は「作る事」だけが目的でなく、「見せる事」そして「稼ぐ事」が目標であるとし、2つの映画館を提携し、職業としての映画監督への分かりやすいステップを構築している。




 ディテールに、雑多なおもしろさが、つめこまれている。ワン・カットごとに、何か変なこと、けったいな要素を入れてやろうという才気とエネルギーがあふれている。
 京都のきわめてせまい路地(知られざる京都の一景)に、ペットボトルを細工したものが、おまつりの飾り物のようにズラッとぶら下げられている光景。これをなしとげたのだろう子どもたちが異様にさわぐ。集団催眠を思わせる様子。彼らの目的は何なのか?
 主人公の一人の住むところを、はじめてうつしたとき、後景では、すりガラスをとおして、だれかがシャワーをつかっている裸体が見え、その手前では、エプロンと白いショーツの腰までとどきそうな長い髪の人が、台所しごとをしている。はじめ、男の観客の視線としては、シャワー中の裸体に注意力がむかうが、手前の長い髪の、半裸エプロンが女性かなと思うと、なんだ、シャワーは男か、と注意が後退する。ところが……と、ワン・カットのなかで、しょうもないドンデン返しをやってのける、妙なこりかた(画面のなかに反射的に女の裸体をさがす生活習慣のない人には、何もドンデン返しではないのかも知れないが)。
 特殊メークで、まるで漫☆画太郎のえがくババアのような顔のキャラが、霊柩車の助手席にのって、京都のまちをゆっくりとクルージングしている。
 いまパッとうかんだ場面をあげてみたが、それぞれに、ちがった性質の奇妙さ、おもしろさである。そういうものが、つぎからつぎへと出てくる。特殊視覚効果をつかった場面もすくなくない。いろんなヘンなキャラクターが出てくる。
 だから、あきないのだが、ストーリーの大枠が見えてこないので、イラつきもしてくる。よくわかり、感情をのせることができるのは、福岡で「正義感殺人事件」をおこした少年が、いま京都に住んでいて、ひっそりとはたらいていたが、正体を知られ、インターネットを通じて自宅まで監視されてしまう、というはなしだけ(この元少年の保護観察員として、柴田剛監督の代表作『おそいひと』('04)の主演者、住田雅清が出演)。
 見おわって、チラシのあらすじを読んだ。
「大妖怪・加藤 the catwalkドーマンセーマンは、長年地球侵略を画策していた。それを察知し、密かに地球に降り立ったギャラクシー・フォースのリーダーは、京都と呼ばれる地で安部さんと名乗り、陰陽師として人々に畏れられる存在となった……」
 なんだ、そういう大枠の設定なのか。それが、うすうすわかる、という現状ではなく、きちんと開示されていれば、もっとおもしろくなって、森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女」や万城目学の、映画化もされた「鴨川ホルモー」につらなる京都ファンタジーの一大エンタテインメントになっていた可能性があるではないか。残念な気がする。
 でも、ストーリーが見えなかったのは、ぼくだけかも知れないので、みなさんも、ためしてみていただきたい。

      Profile:宇田川幸洋
映画評論家。香港映画をはじめ、日本のインディーズ系映画などに造詣が深い。おもな著書に、「無限地帯―from Shirley Temple to Shaolin Temple」(ワイズ出版)などがある。




 今日、デジタルビデオはおろかHDで撮影された映画が大半を占めるようになってきていて、私はその画面に物足りなさを感じることがある。室内に奥行きが感じられなかったり、ロケーションでも奥から車が走ってきているのに平面の移動のように見えたりする。一枚膜がかかったような白っぽい映像に出くわすことも多い。それらは大概物語を追ううちに気にならなくなるのだが、映画体験の一つの不要な関門として立ちはだかる。私は空間をどう切り取るかが映画において一番大切な命題であると考えているので、そのような点で35mmフィルムで撮影されたピンク映画に、特に堀禎一のフィルムに、映画で描いた現在を感じ、充足感を得ているのかもしれない。
 柴田剛の『堀川中立売』は、彼のもつ映像的な嗅覚が存分に堪能できる。加藤the catwalk ドーマンセーマンのオフィスの描き方、主人公であるサエとシンスケの部屋の有りようは、フィルムで切り取る感覚でもなく、上に記したような“ビデオ映像”でもなく、柴田剛の映画世界たり得ている。この映像感覚は稀有だ。冒頭の路地の描写を見よ。私はその独特な映像感覚で描く前半のシンスケを中心とした冴えない人たちの京都の生活がたまらなく好きだ。室内シーンと外のシーンの移り変わりのタイミング、人物の心の中と相手の気持ちの差し図りと外ヅラ的な振る舞いと表情。映像から作り手の意図がビンビン伝わってくる。
 そんな前半を経て、誰でもない弱者たちの浮遊する生活が、終結していくことで次第に巨大な敵と対峙していく。そうか、このテーマは森崎東かエミール・クストリッツァではないか。そして思い出すとタイトルが交差点の名前なのだ。

      Profile:石川多摩川
8mmフィルムでの映像制作、執筆・音楽活動など。





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